さわさわと流れる清流と清涼なる空気。耳を澄ませば聞こえるのは動物の声と魔物の声。
そして木々のざわめき。
綺麗な場所だと思う。
目覚めたのはタタル渓谷。
そこから徒歩でここまでの距離はかなりのものだ。
距離もあったが一番ここまで来るのにかかった理由は、今も後ろ手で手を繋いでいる少女の姿になった半身だろう。
魔物に対しては、生存を脅かすものとしての本能的な恐怖を持つ様で、戦いにおいては問題なく剣を手に戦う。
魔物に対してだが…。
人間の敵(盗賊等)に対しては完全に及び腰。
否…人間という名のカテゴリーに属するものは、手を引いて歩く青年。アッシュ以外は全て怖い…そう言って怯えた。
自分は恐ろしい罪人だと、永久に…償わなくてはいけないと。記憶の存在について聞いても、罪人だという記憶と…人の中に入れば必ずその場にいる人々が己を断罪に来るのだという先入観以外は僅かなもので、ほぼ記憶をなくしていた。
記憶喪失。
以前、レプリカとして生み出された時に診断された症状。
音素乖離の後遺症か、はたまた何かの原因のある事なのか、アッシュにはわからなかった。
ただし、その強すぎる罪人という認識と、先入観で…ルークは完全に対人恐怖症になっていた。
いや、もしかしたらもっとひどいのかもしれない。
断罪をされなければいけないのに、人前に出るだけで発狂しそうになるくらい怖い。
前を向けない。声が出ない。足がすくみ、意識が朦朧とする。
ただ一人、アッシュを除いては…。
アッシュは怖くない。
ルークはそう言った。
大爆発回避のために、自ら望んで女性になったとローレライは言った。
アッシュが大爆発の結果を良しとしなかったためだ。
もし起これば…ルークレプリカは死ぬ。そんな事は断じて許さない。
そう強くアッシュが望み、ルークは無意識に乖離寸前の状態で願った。
『どんな姿でも構わない、後遺症が残ってもいい。生きたい。
アッシュと生きたい 』
ローレライは言った。
ルークは心根は何も変わっていないと、ただ持っていた記憶がその意志の強さを補い…助けていた。
それが無い今、ルークを守ってやれるのはアッシュのみ。
ルークを慈しみ、愛して欲しいと。
………不思議だった。あれだけ憎んでいたのに、存在を認めたとしても。
そう簡単には気持ちは切りかえれないはずなのに…自分は今もこうしてルークの手を引いて歩いている。
まだ、どう思っているかはわからない。
かつてナタリアに向けたままごとの様な…初恋とは違う何かがあるのは確かで。
「アッシュ?」
不意に振り返ったアッシュにルークが小首を傾げる。記憶が無い為か、抵抗なく身に纏っているのは若草色のドレスで縁取りに黒のレースとリボン。
ローレライなりの配慮か動きを制限するコルセットはない。
背に流れるのは長い朱金の髪。
「この先に、チーグルが住んでいる。あのチーグルは覚えていたな?」
僅かな記憶の中で、ルークが認識した身近な存在はアッシュとミュウ。
オリジナルであり、ルークにとって特別な人と。
どんなに愚かで浅ましく臆病だった自分を大好きだと言い、最後まで見捨てなかった子供のチーグルだけなのだ。
「うん!覚えてる!ミュウ元気かな?」
途端に輝くような笑顔を見せるルークに、アッシュも思わず微笑み返す。
恐らく…いや、間違いなく自分の意思でルークを愛しいと思う。
「知るか。これから会いに行くんだろう」
惹かれているのだろう、ルークに。
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作:秋音 鈴