何日遅れかの七夕です。
そもそも思い浮かんだのが七夕が終わってからという……。
彼岸と此岸。生者と死者。それを分かつのは境界の川。
生きるもの全てに等しく訪れる、避けられぬ別れ。
彼岸と此岸の狭間で運命のいたずらのように再会したがくぽとルカ。
よろしければ追記よりどうぞ
+ + + + + + + + + +
邂逅
ごうと重く水の流れる音にがくぽは目を開けた。
薄闇が覆う空。眼前に広がるのは広大な水の流れ。はるか彼方にけむるように向こう岸が見える。
「これは、境界の川か」
ぐるりと周囲を見回したがくぽは脳裏を掠めた考えをぽつりと呟き違和感に気づく。
若々しく張りのある声。
ふと見下ろした己の手も瑞々しく張りのある。絶頂期の若い頃のものだった。
手を握ったり開いたりして確かめたがくぽは微かに苦笑しして一つ、息を吐くとまた周囲を見回した。
ここが境界の川だというのなら、この場所に待たせている人がいる。
瞼に浮かぶ懐かしくもいとおしい面影は過ぎ去りし年月に朧とかし確かな像を結ぶことはない。だが、心の奥底にそっと大切にしまわれていた。
「……私は死んだのか」
幾分予定より早く死んだものだなと人事のように考えて見回していた背に声がかかる。
「いいえ。ただ、迷われただけですわ」
その声に肩が跳ねる。瞳を揺らして息を詰めたがくぽはきつく手のひらを握り込む。
振り向いて確かめたいのに振り向いた途端に消えてしまいそうで、振り向くことが出来ない。
葛藤にさいなまれるがくぽに噛んで含めるように優しく柔らかな声が届く。
「……お戻り下さいませ、がくぽ様」
その言葉にいっそう激しく肩を震わせたがくぽは勢い良く振り返る。
いとおしいさくら。
ずっと昔に儚くなった妻の姿がそこにあった。
向けられる優しく柔らかな微笑みにがくぽの心の奥底に大切にしまわれたものが溢れ出る。
「……っ」
ルカと紡いだはずの口は声にならず呼気を吐き出した。
微笑み佇む彼女に手を伸ばして、触れる前にぴたりと止まった。
触れた途端に消えてしまうのではないだろうか。そんな一抹の不安にがくぽはその場を一歩も動けなくなってしまった。
苦渋の滲むがくぽの表情に微笑みを苦笑に変えたルカはそれでもどこまでも優しく柔らかな光を湛えた瞳で伸ばされたがくぽの手を取りいとおしそうに頬を寄せた。
「消えたりしませんわ」
お逢いしとうございました。僅かに淡い空色の瞳を潤ませ己を見上げるルカをがくぽは今までの躊躇も何もかも捨て、彼女の華奢な身体をきつく抱き竦めた。
「っ……ルカっ」
それ以外、何も言えずにいるがくぽの背にルカの細い腕が回される。
幼子にするように背をぽんぽんと優しく彼女の手が動く。
その彼女の全てが泣きたいほどにいとおしい。
いっそこのまま……その考えは抗いがたい暴力的なまでの誘い。
「がくぽ様。お戻り下さいませ」
揺らぐがくぽの意志にその言葉は柔らかくも強く響き、がくぽの脳裏に掠めたものを打ち砕く。
彼女の肩口に顔を伏せたままがくぽは聞こえなかったふりをする。抱き竦める手に力がこもる。
離れたくない、離したくないとがくぽの心が叫ぶ。
嫌だと紡ぎかけた口は静かな、さざ波一つ立たない声に遮られた。
「わたしは、……約束を守れない方は嫌いです」
その言葉に最後の時、彼女と交わした約束が胸をよぎる。
白さを増して冷たいルカの手を取り、瞬きひとつせずにがくぽはルカを見つめた。
声にならない途切れ途切れの声。
『……がくぽ、様。あの子、たちを……』
懸命に言葉を継ぐルカにがくぽは何度も頷いた。言葉は喉の奥に引っかかり出ては来ない。
それでも安心させるように無理に口角を上げて笑みめいたものを浮かべたがくぽにルカはほっとしたように微笑んだ。
その笑みを。その言葉を覚えている。
のろのろと顔を上げたがくぽの力の抜けた腕からルカがするりと抜けだし正面に立った。
「わたしの旦那様は、偉そうで、皮肉屋で、俺様で、自信家で、強い方ですわ」
なんだそれは。いきなりの物言いに胡乱気に眉を寄せるがくぽに構わずルカは言い募る。
「……一度交わした約束を違える方ではありません。だから……」
約束を違える方など知りません。瞳を揺らし言葉に詰まり肩を震わす彼女にがくぽは切ない目を向けた。
「ああ、わかった。……わかっているさ」
だから、泣くな。そっとルカの頬に手を伸ばし触れ額を重ねる。
「泣いてなど、……いませんわ」
ああ、そうだな。お前は泣き虫で、怖がりで、強情で。
妖かしが怖いと泣いて。嵐の夜に己に縋り独りにしないでと泣いて。それでも何があろうとも己の傍にいることを選んだ。どこまでも愛しい、最愛のひと。
「お前を怒らせたくないから戻るとしよう」
「……何ですか。それは」
くすりと笑い告げるがくぽの言葉に呆れたように彼女が胸を打つ。
その仕草。声。微笑みをがくぽは焼き付ける。
「あ」
瞳を瞠り小さな声を発した彼女の視線の先を辿ると仄かな燐光を帯びて微かに透ける己の手。
ああ、もう刻限か。苦いものがこみ上げる。
「やれ、せわしないな。まったく」
肩を竦めてみせるがくぽに大きく瞳を揺らしたルカはそれでも気丈に笑みを浮かべる。
「ルカ。済まないな」
今しばらく、そう長くは待たせはしないが。それまでは。
「今更、五年も十年も一緒ですわ。……恨み言はその時にお聞きします」
「何だ恨み言とは。言いたいのはお前の方だろう」
「あら、わたしはありませんわ」
むっとぼやくがくぽを見てくすくす楽しげに笑うルカの姿にがくぽはなんとも言えない風情で肩をすくめてみせた。
仄かな燐光は今やがくぽの全身を包んでいた。
その時になってようやくがくぽは気付いた。
この暗い恐ろしげな場所でルカは独り、己を待っているのだと。
かける言葉を探すがくぽに彼女は明るい声で笑う。
「ご心配には及びません。わたしは大丈夫ですわ。……だって、わたしはあなたの妻ですもの」
胸を張り言い切る彼女に目を丸くしたがくぽはこらえ切れない笑みをこぼした。
「……そうか」
透ける手を伸ばしルカの頬に触れる。触れたはずの手は温もりも何も伴わない。
それでも、空いた手で彼女を抱く。
瞳を大きく揺らしながらルカもまたがくぽの頬に触れる。
触覚を伴わないそれはそれでも確かなものを伝え合う。
燐光に包まれたがくぽの身体は上半身を越えて透け始めた。
「ルカ。愛しているよ」
徐々に白く染まる視界の中でルカの口が動くのを見た。音を伴わないその言葉をがくぽはそれでも確かに受け取った。
『ええ。わたしも、愛しています』
「っ……っ!」
がくぽを包んでいた最後の燐光が消えた瞬間、ルカはその場にくずおれた。
身体を震わし、こらえ切れない嗚咽を漏らしたルカは己の肩を確かめるように抱いた。はたはたと水滴が地に落ち濡らす。
「っ……ご、ごめんなさい。……っあなた」
違えてしまった約束がある。
傍にいると、独りにしないと決めたのに……。
最後の時、遠のく意識の中で見たもの。
真一文字に引き結ばれた口。色を失った顔は強ばり悲痛な色に染まっていた。
その彼の頬を伝う一筋の流れ。
それを見たときにルカは心に決めたのだ。
たとえ、何があろうともここで、この場所でがくぽを待とうと。
本当は……とても怖くてたまらないのだ。闇も、番人も。
優しく触れる手に縋り付きたいのを、涙するのを必死にこらえていたルカは糸が切れたように泣いた。
「がくぽ、様」
その名を紡げば、怖くて怖くてたまらなくても、いくらでも耐えられる。
彼の温もりも、眼差しも全てがルカを勇気づけていた。だから、大丈夫。
わたしの旦那様は、偉そうで、皮肉屋で、俺様で、自信家で、強くて、優しくて……そして、とても弱い。恋しくて、愛しくて、最愛のひと。
後書き
浮かんだものを浮かんだままに書いてみました。
書いてるうちにどこぞの某最強じいさん夫婦になってきてしまいました(^_^;)。
まあ、この話のがくぽさんの年は考えないほうがいいです。だって御年うん歳ですからね。
ごうと重く水の流れる音にがくぽは目を開けた。
薄闇が覆う空。眼前に広がるのは広大な水の流れ。はるか彼方にけむるように向こう岸が見える。
「これは、境界の川か」
ぐるりと周囲を見回したがくぽは脳裏を掠めた考えをぽつりと呟き違和感に気づく。
若々しく張りのある声。
ふと見下ろした己の手も瑞々しく張りのある。絶頂期の若い頃のものだった。
手を握ったり開いたりして確かめたがくぽは微かに苦笑しして一つ、息を吐くとまた周囲を見回した。
ここが境界の川だというのなら、この場所に待たせている人がいる。
瞼に浮かぶ懐かしくもいとおしい面影は過ぎ去りし年月に朧とかし確かな像を結ぶことはない。だが、心の奥底にそっと大切にしまわれていた。
「……私は死んだのか」
幾分予定より早く死んだものだなと人事のように考えて見回していた背に声がかかる。
「いいえ。ただ、迷われただけですわ」
その声に肩が跳ねる。瞳を揺らして息を詰めたがくぽはきつく手のひらを握り込む。
振り向いて確かめたいのに振り向いた途端に消えてしまいそうで、振り向くことが出来ない。
葛藤にさいなまれるがくぽに噛んで含めるように優しく柔らかな声が届く。
「……お戻り下さいませ、がくぽ様」
その言葉にいっそう激しく肩を震わせたがくぽは勢い良く振り返る。
いとおしいさくら。
ずっと昔に儚くなった妻の姿がそこにあった。
向けられる優しく柔らかな微笑みにがくぽの心の奥底に大切にしまわれたものが溢れ出る。
「……っ」
ルカと紡いだはずの口は声にならず呼気を吐き出した。
微笑み佇む彼女に手を伸ばして、触れる前にぴたりと止まった。
触れた途端に消えてしまうのではないだろうか。そんな一抹の不安にがくぽはその場を一歩も動けなくなってしまった。
苦渋の滲むがくぽの表情に微笑みを苦笑に変えたルカはそれでもどこまでも優しく柔らかな光を湛えた瞳で伸ばされたがくぽの手を取りいとおしそうに頬を寄せた。
「消えたりしませんわ」
お逢いしとうございました。僅かに淡い空色の瞳を潤ませ己を見上げるルカをがくぽは今までの躊躇も何もかも捨て、彼女の華奢な身体をきつく抱き竦めた。
「っ……ルカっ」
それ以外、何も言えずにいるがくぽの背にルカの細い腕が回される。
幼子にするように背をぽんぽんと優しく彼女の手が動く。
その彼女の全てが泣きたいほどにいとおしい。
いっそこのまま……その考えは抗いがたい暴力的なまでの誘い。
「がくぽ様。お戻り下さいませ」
揺らぐがくぽの意志にその言葉は柔らかくも強く響き、がくぽの脳裏に掠めたものを打ち砕く。
彼女の肩口に顔を伏せたままがくぽは聞こえなかったふりをする。抱き竦める手に力がこもる。
離れたくない、離したくないとがくぽの心が叫ぶ。
嫌だと紡ぎかけた口は静かな、さざ波一つ立たない声に遮られた。
「わたしは、……約束を守れない方は嫌いです」
その言葉に最後の時、彼女と交わした約束が胸をよぎる。
白さを増して冷たいルカの手を取り、瞬きひとつせずにがくぽはルカを見つめた。
声にならない途切れ途切れの声。
『……がくぽ、様。あの子、たちを……』
懸命に言葉を継ぐルカにがくぽは何度も頷いた。言葉は喉の奥に引っかかり出ては来ない。
それでも安心させるように無理に口角を上げて笑みめいたものを浮かべたがくぽにルカはほっとしたように微笑んだ。
その笑みを。その言葉を覚えている。
のろのろと顔を上げたがくぽの力の抜けた腕からルカがするりと抜けだし正面に立った。
「わたしの旦那様は、偉そうで、皮肉屋で、俺様で、自信家で、強い方ですわ」
なんだそれは。いきなりの物言いに胡乱気に眉を寄せるがくぽに構わずルカは言い募る。
「……一度交わした約束を違える方ではありません。だから……」
約束を違える方など知りません。瞳を揺らし言葉に詰まり肩を震わす彼女にがくぽは切ない目を向けた。
「ああ、わかった。……わかっているさ」
だから、泣くな。そっとルカの頬に手を伸ばし触れ額を重ねる。
「泣いてなど、……いませんわ」
ああ、そうだな。お前は泣き虫で、怖がりで、強情で。
妖かしが怖いと泣いて。嵐の夜に己に縋り独りにしないでと泣いて。それでも何があろうとも己の傍にいることを選んだ。どこまでも愛しい、最愛のひと。
「お前を怒らせたくないから戻るとしよう」
「……何ですか。それは」
くすりと笑い告げるがくぽの言葉に呆れたように彼女が胸を打つ。
その仕草。声。微笑みをがくぽは焼き付ける。
「あ」
瞳を瞠り小さな声を発した彼女の視線の先を辿ると仄かな燐光を帯びて微かに透ける己の手。
ああ、もう刻限か。苦いものがこみ上げる。
「やれ、せわしないな。まったく」
肩を竦めてみせるがくぽに大きく瞳を揺らしたルカはそれでも気丈に笑みを浮かべる。
「ルカ。済まないな」
今しばらく、そう長くは待たせはしないが。それまでは。
「今更、五年も十年も一緒ですわ。……恨み言はその時にお聞きします」
「何だ恨み言とは。言いたいのはお前の方だろう」
「あら、わたしはありませんわ」
むっとぼやくがくぽを見てくすくす楽しげに笑うルカの姿にがくぽはなんとも言えない風情で肩をすくめてみせた。
仄かな燐光は今やがくぽの全身を包んでいた。
その時になってようやくがくぽは気付いた。
この暗い恐ろしげな場所でルカは独り、己を待っているのだと。
かける言葉を探すがくぽに彼女は明るい声で笑う。
「ご心配には及びません。わたしは大丈夫ですわ。……だって、わたしはあなたの妻ですもの」
胸を張り言い切る彼女に目を丸くしたがくぽはこらえ切れない笑みをこぼした。
「……そうか」
透ける手を伸ばしルカの頬に触れる。触れたはずの手は温もりも何も伴わない。
それでも、空いた手で彼女を抱く。
瞳を大きく揺らしながらルカもまたがくぽの頬に触れる。
触覚を伴わないそれはそれでも確かなものを伝え合う。
燐光に包まれたがくぽの身体は上半身を越えて透け始めた。
「ルカ。愛しているよ」
徐々に白く染まる視界の中でルカの口が動くのを見た。音を伴わないその言葉をがくぽはそれでも確かに受け取った。
『ええ。わたしも、愛しています』
「っ……っ!」
がくぽを包んでいた最後の燐光が消えた瞬間、ルカはその場にくずおれた。
身体を震わし、こらえ切れない嗚咽を漏らしたルカは己の肩を確かめるように抱いた。はたはたと水滴が地に落ち濡らす。
「っ……ご、ごめんなさい。……っあなた」
違えてしまった約束がある。
傍にいると、独りにしないと決めたのに……。
最後の時、遠のく意識の中で見たもの。
真一文字に引き結ばれた口。色を失った顔は強ばり悲痛な色に染まっていた。
その彼の頬を伝う一筋の流れ。
それを見たときにルカは心に決めたのだ。
たとえ、何があろうともここで、この場所でがくぽを待とうと。
本当は……とても怖くてたまらないのだ。闇も、番人も。
優しく触れる手に縋り付きたいのを、涙するのを必死にこらえていたルカは糸が切れたように泣いた。
「がくぽ、様」
その名を紡げば、怖くて怖くてたまらなくても、いくらでも耐えられる。
彼の温もりも、眼差しも全てがルカを勇気づけていた。だから、大丈夫。
わたしの旦那様は、偉そうで、皮肉屋で、俺様で、自信家で、強くて、優しくて……そして、とても弱い。恋しくて、愛しくて、最愛のひと。
後書き
浮かんだものを浮かんだままに書いてみました。
書いてるうちにどこぞの某最強じいさん夫婦になってきてしまいました(^_^;)。
まあ、この話のがくぽさんの年は考えないほうがいいです。だって御年うん歳ですからね。
by 瀬川 唯
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