バチカルの古い屋敷に人が住み始めた。何処かの貴族が買い上げ、改修を施されているのは近隣に住むものは知っていたが、いつの間にか明かりが点るようになってから、誰かが住み始めたと知れ渡り……口さがない貴婦人達は直ぐに誰が住んでいるのかを突き止めた。
住んでいるのは嫁ぎ損ねた弱小公爵家の令嬢。身体が弱く、領地すら持てないとされてきた貧相な女。最近になって慈善家として寄付や施設に訪問をしているようで、王家からも助力を得ている人物だった。レプリカ教育にも熱心な人物で雇っている使用人はほぼレプリカか、その身内や理解者だ。
彼女にはパトロンが居るようだったが、教育の行き届いた使用人達は決して口を割らなかった。そんな彼女の暮らす屋敷に今夜も夜更けに一人の人物が訪れる。
メイド達に出迎えられ、外套や帽子を渡しながら、アッシュは目の前に微笑む姿に目元を緩ませる。
「おかえりなさい、あなた」
「ああ、ただいま。ルティ」
首筋に回された細い腕の感触と甘い香りに安らかな心地を味わいつつ、抱きしめ返す。
ここは、アッシュの妾として暮らすルティシアの屋敷。彼女の存在は少数の有力貴族とアッシュの両親、彼女の両親しか知りえない。知らないものの中にはかつてのルークの仲間とアッシュの妻ナタリアの存在も含まれる。
いずれ、アッシュや協力者が妥当と判断した際に彼女を公妾として公表する予定になっている。今の慈善家としての活動も公表をした際の国民の意識を和らげる為だ。
下ろしたままの赤い髪を指で弄んでいると嫌がるように首を振って腕から逃れていってしまう。
「さむかったでしょう? あなた。お部屋は温めていますわ」
くすくすと笑う彼女に促され、手を繋いで階段を上がる。彼女に会うのは実に一ヶ月振りだ。細い身体には夜着とガウンしか羽織っていないところを見ると『夫』の帰宅の知らせを受けて直ぐに起きてきたのだろう。ルティシアは余り体力が無い。それゆえ、決まった時間には寝てしまう。
申し訳ない気持ちにもなるが、慌てて起きだし化粧を施したのだと思うと嬉しくなる。ずっと、逢いたいと思っていた。
通された部屋で暖炉の前に座ると、季節最後になるであろう雪が溶けて濡れた髪をルティシアがタオルを手に水気を取りに掛かる。
「やりにくいわ、あなた。少し屈んで? 」
ルティシアはアッシュを『あなた』と呼ぶ。無論、伴侶に向けるあなたという意味合いで。
「こうか? 」
ルティシアに合わせると長いすに座っていてはやりずらい、そう判断しアッシュは柔らかな敷物の上に腰をおろす。自然と彼女の膝に背中を預ける形になった。
「ええ、ごめんなさい。床に座ってもらうけど……」
「構わん」
「そう? 」
「ああ。他の奴なら許さんが、お前ならいい」
暫らく、暖炉の前で他愛の無い会話や触れ合いを続け、その後に二人で糊の利いた寝台に入る。
部屋に響く性交の音と息づきかいが止んだのは空が白み始めた頃だった。行為の余韻を残し、まだ話さなければいけない内容が頭にあっても、連日の激務の為か抗いがたい睡魔に襲われ、アッシュは深く深く眠りに落ちる。
深く眠ることができるのは、ルティシアの側だけだっだ。他の場所で眠れば、繰り返し愛しい半身の乖離する夢を見る。それはどんな状況の夢でも最後には目の前で半身が乖離し死んでしまう。泣き叫んでも、憤っても。手を伸ばしても届かず、絶望に悶え、心が空になる。
夢では身体中の水分が無くなるまで流れる涙は、現実では悲しみが深すぎて一度も流れない。人は……精神を壊すほどの悲しみを味わうと涙を流さないと言う事は知った。
悲しい。
苦しい。
欲しいものは僅かだったのだ、愛しいルークと彼と暮らす場所。それだけで良かった。
それしか必要なかった。
死んでしまっても、彼さえ生きられれば不満も後悔もしない。あるはずがない。
夢は……見ない。ただ眠る。
それが、今のアッシュにはとても貴重な時間だった。
ベットから身を起し、アッシュの寝顔を覗き込む。閉じた切れ長の目の下の隈に眉間に皺が寄る。先日、王母となったシュザンヌから来た手紙のように、彼は悪夢に囚われている様子だ。
今は、悪夢を見ていないようだ。
(側に居るよ……)
約束だから、守りたいから、……愛しいから。
何時も、何時も。本当に彼が愛してくれているのか不安だった。婚約者であるナタリアを大事にしていたし、彼を最初に陽だまりから追い出したのは『自分』だったから。
何時からだろう? 憧れに似た気持ちは恋情に変わり、少しでも近づきたかった。失敗ばかりの自分を文句と罵声を浴びせながら助けてくれて、とても嬉しいのと同時にやりきれなかった。
早く同じ場所で同じペースで歩みたくて必死だった。仲間は誰も自分の本心を知らず、からかう言葉に落ち込んだ日も少なくない。
そんな時は何時もアッシュが励ましてくれる様になって、思う気持ちが同じと知り。恋仲になって、数えるくらい身体を重ねず、あとは子供のようにじゃれ合いキスをして……。それだけでも幸せで、十分過ぎるくらい幸せで……。
ローレライに、力を借りてこうしてまた、近くに居られるようになった。精神的な疲労で生を放棄してしまってルティシアから、『命』を貰って。
(アッシュ。俺はここだよ? 近くに居るよ)
ルークは、そっと眠るアッシュに触れる。髪から、頬に、頬から肩に。手を這わせ、涙を流す。
(こんなに悲しむなんて思わなかった)
再会した時の彼はまるで幽鬼の様だった。絶望に濁り生気の無い眼差しも、覇気の無い佇まいも。全身で表していた……『死ぬほどルークが愛しい』と。
「愛してる、アッシュ。大好き」
自分から、アッシュに正体を明かす事はローレライから禁じられている。だから、ルークは待つ。
彼がルティシアが誰なのか知れば、昔のような覇気を取り戻せるだろう。誰よりも大切な人。
愛しい人の為に祈る。どうか安らかに眠れますようにと、どうか……愛しい人を守れるようにと。今のルークに出来るのはそれだけだ。
もう一度傍らに横たわると、うっすら目を開いたアッシュが眠たげに微笑む。
「風邪を引く……」
そう、呟くと抱きしめられた。
「ありがと。アッシュ」
彼がルークに気付くのは遠い未来ではない、無意識にルークに気付き、手放せないほどに近くに置きたがったのはアッシュだ。だから、ルークも信じて待つのだ。
つづく